仮に戦で散ったとしても現代社会で死ぬことはない

昨日、いわゆる「いとこおじ」にあたる親戚が営むお寿司屋さんで、両親, 祖母, 私 の4名でお寿司を頂いてきました。このお寿司屋さんにはストーリーがありまして、僕が就活時代、勝手にセーフティーネットとしたことがあります。どんな話かというと、大学デビューに失敗し、仕事では絶対に滑らないぞ、という不退転の決意を決め就職活動に挑んだ私は、情報を様々なソースからかき集めた結果、(今思うと本当に青二才が何言ってるんだという感じですが)「日本には殆ど行きたい会社が無い」ということに気付きました。そして、とても行きたい会社が1社、加えて、働いてみたいと思える会社が2社の、合計3社しか行きたい会社が見つかりませんでした。周りを見渡せば、10社も20社も受けるのが普通だと言います。しかし、どうにも行きたい会社に思えない。行きたくない会社に対して志望理由を書いてみても、意味の通じない文章にしか仕上がりませんでした。結果、3社しか受けないでいいやという判断をしたわけですが、当然「落ちたらどうしようか」というシナリオについても検討しました。数日間検討を重ねた結果、前段の寿司屋をやっている親戚を思い出し「全部落ちたら頭を下げに行って、寿司職人になろう。」ということに決めました。なんて身勝手なのでしょうか。(笑)しかし、この戦略は功を奏しました。落ちたらどうするの?という質問に対しての回答が「寿司屋になると決めています」ということになり、自分としても覚悟を決めて言っているので、「何なんだこいつは」という面接になりました。結果、1人くらい変な奴がいたほうが面白いだろうという枠で採用された(と思っている)のですが、ここから導いた結論は、どれだけ挑戦したとしても現代社会で死ぬということはないということです。当たり前の日常がいつまでも続く世界はとっくに終わっています。昨日より少しでも成長したぞ、という実感がわかない状態で1年が過ぎ去っていくような状態であれば、何かがおかしいということに気付かなければなりません。挑戦して、借金が増えることはあっても、死ぬことはありません。誰かの恨みさえ買わなければ、後ろから刺されることはありません。まっとうに生きていて、何者かに後ろから刺されたり、いきなり射殺されたとしたら、それはそこまでの人生だったということです。命がリスクに晒されている度合いが安土桃山時代のスタンダードに戻っただけです。今週も命を削っていきましょう。