嘘と冗談とテクニカルな真実

もうすぐ30歳です。人生何歳まで生きるかわからないですが、僕はおそらく寿命ではなく病気によって人生を終えるのだろうという気がしています。なぜならば、父と祖父が病によって倒れているからです。事故にだけは遭いたくない、そう願っております。寿命が仮に90くらいだとして1/3ほど生きたかたちになりますが、最近、あることに気がつきました。僕の非常に短い人生経験の中でも、社会には、嘘と冗談とテクニカルな真実という3種類の伝達方法があることに気がついたのです。

「あなたは、まっすぐに生きたいですか?」と100人に質問したら、90%くらいは「はい」と答えるのではないでしょうか。「嘘をつくのはいけないことですか?」と100人に質問したら、どうでしょうか。年齢によって答えが変わりそうな問いです。社会を生きる上で、いつも毎日24時間、自分の思いを全て伝える、本当の事を追い求めるという生き方は非常に難儀な生き方だということを、人間は年を重ねるにつれ、悟っていきます。では、嘘と冗談の境目とはなんなのか?相手を悲しませないための嘘は、善なのか悪なのか。こればかりは固定的な答えがあるわけではなく、シチュエーションによっても最適解が異なれば、時間軸を短期で見るのか長期で見るのかによっても異なります。自分が得たいものに対して「正直」が最適解と思われる場合もあれば、「嘘」が最適解となる場合もある。自分が発信した嘘は、発信対象に見抜かれるまでは事実としてその場に存在する概念となります。その嘘が振り返ってみて「よかったね」という類のものもあれば、取り返しのつかないことになる場合もあります。人生とは数奇なものです。

最近気付いた新しい概念で、テクニカルな真実というものがあります。テクニカルな真実は、「嘘は言っていないが重要なことは隠している」という状態です。例えば、伝達義務のない事故物件。例えば、過去の人生における犯罪歴。入念に調べれば分かることですが、自分から伝えるべきでないこと、いうなれば不都合な真実を自ら勇んで伝える人は少ないでしょう。人間は社会の枠組みの中で生きるという意思決定をしたら、以降ずっと、何らかのしがらみに足を絡みとられながら生き続けていかねばなりません。テクニカルな真実によって相手をうまくかわすことが正解なのか、それとも不正解なのかは、後から振り返ってみなければ分かりません。自らの意思決定は、その場その時その瞬間で全て答えが出るということはないのです。しかし、人生は自らの下した意思決定と自らの行いによって複雑に織り重なって今という瞬間を形作ります。未来から現在を見れば、どうなるかという答えが自然と出るのです。しかし現在から未来を見ることは出来ません。となると、自分はどう生きたいか、という在り方が拠り所になります。

僕の中の結論としては、「自分がいない瞬間に起きている事において、”真実”をすべて知ることは不可能。ならば、世の中全てのことについて、必ずしも全てを知りたいとは思わない。自分なりの”考え”を研ぎ澄まし、在り方に忠実に生きていきたい。」と思います。