愛情のゆがみ

他者を愛すという行動、この行動の根源としては動物の本能にあるのかもしれませんが、成熟した社会においては「どのように他者を愛するのか」という方法論については、「まとも」か「まともじゃない」という尺度によって自動的に判別されていくような気がしています。というのも、ストーカーという例を出して申し訳ないのですが、自分が愛した相手に対して自分を愛して欲しいという欲求がある場合、求愛の手段をどこまで行使するのかということと、相手の都合をどこまで配慮するかという2点が論点となってきます。人口が過密になってきてコミュニティが増えていった結果、SNSなどで目立つ存在以外は人間同士が個と個を識別しないエリアが増えてきました。コミュニティにおける自身の匿名性が高まり、いわゆる「世間」という概念が希薄化した時、人間は自身の欲求に対してかかる摩擦が小さくなり、より本能や得たいものに対して忠実に行動し始めるのではないかと思います。

このタガが外れる要因は、シリアルキラーとなってしまった人の幼少期などを記録した文献を読んでいるときに特に感じるのですが、コミュニティにおける匿名化というもの以外にも多数あり、仕事や家庭で抱えるストレスや、自身のコンプレックスなどから来るねじれた感情等、様々なものが挙げられますが、生来成長プロセスの中で受けてきた愛情によって、その人の自尊心と強く関連付けられているような気がします。幼少期にトラウマとなるような虐待やネグレクトの類、或いは逆に、過剰な愛を注がれることによって、自分自身の愛情がゆがんでしまうという傾向があるのではないでしょうか。自分自身の内なる凶暴性や追い詰められた時に見せる秘めた側面は、その時その瞬間になってしまわなければ分からないものです。また、愛情のゆがみと言ってはいますが、何がゆがんでいて何がゆがんでいないか、正解もまたありません。あるのは、誰かに迷惑をかけるような人生でありたくない、願わくば関わりのある人たちに幸せになってもらえたら嬉しい、という一点があるのみです。